異星人、お箸、そして第六感
- rowiko2
- 2 日前
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更新日:1 日前
本記事は、2025年4月20日に英語で公開されたものです。
最近、日本は観光地としても移住先としても、人気の大波(tidal wave)に乗っています。その結果、近所をジョギングや散歩するたびに、まるで「国連パレード」のような光景に出くわすようになりました。
2024年末時点で過去最多の380万人の外国人が日本を「我が家」と呼んでいることを考えれば、同じ「外国人種(foreign species)」の仲間に出くわすのが日常茶飯事になったのも不思議ではありません。とはいえ、彼らを見分けるのは思ったほど簡単ではありません。
確かに、アメリカ人やヨーロッパ人を見分けるのは「赤子の手をひねる」ようなものです。しかし、在留外国人の大半は他のアジア諸国出身であり、多くの場合、言葉だけが唯一の手がかりです。そして、それ自体が厄介なこともあるのです。
例えば昨年のこと。韓国人の同僚が来日した際、美味しい食事で親睦を深めようとランチやディナーに連れて行きました。店員は株式トレーダーよりも素早く状況を判断します。「ふむ……日本語が全く話せなそうな欧米人と、たぶん日本人の女性。考えるまでもない、彼女に話しかけよう。そうすればストレスもたまらないし、拙い英語で恥をかくこともない」。
そして私を完全に無視し、韓国人の友人に質問攻めにするのです――もちろん、彼女は日本語が一言も分からないのですが。店員はまるで異次元に吸い込まれたかのような大混乱に陥ります。
当然、私が助け舟を出します。「見た目は馴染んでいるけれど言葉が通じない」場合、日本は厄介な場所になり得るのです。
私の場合は逆のシナリオです。人々は私が日本語を話すとは思っていませんが、話せると分かった瞬間の、あの目に見えるような安堵感といったら! 間違いなく世界でも難しい言語の一つである日本語を流暢に操る外国人が増えるにつれ、期待値も相応に上がっています。
ランダムな英単語(私には意味不明なことも多かったですが)を散りばめた、赤ちゃんに話しかけるような日本語で話しかけられることは――ありがたいことに――過去のものとなりつつあります。
とはいえ、区別が必要です。日本人には、欧米系の外見をした人物が「年季の入った居住者」なのか、単なる「通りすがりの観光客」なのかを見分ける「第六感」があるようなのです。おそらく、無意識にお辞儀をしてしまう反射的な動作のような、微妙な癖が「初めて来た観光客ではない」という動かぬ証拠になっているのでしょう。
しかし、私が別の欧米人と一緒にいると、その第六感は誤作動を起こします。「外国人が一人なら、長く住んでいて言葉も話せるだろう。でも二人一緒? 日本を冒険中の弾丸旅行客に違いない」という思い込みがあるようです。外国人がたった一人増えるだけで力学が変わるのは面白いものです!
(比較的!)流暢であることにも落とし穴はあります。日本語の語彙は底なし沼のようで、丁寧さのレベルには常に上が存在します。そして何ということでしょう、客に対しては丁寧レベルが急上昇するのです。つまり、私に投げかけられる過剰に丁寧なフレーズが理解できないことがあるのです。もっと簡単な表現に変えてくれればいいのに、人々は同じ難しいフレーズを何度も繰り返せば、いつか魔法のように私が理解すると信じているようです。言っておきますが、理解できません。
とはいえ、この28年間、誰かに私の日本語力を褒められるたびに(単に「こんにちは」と言っただけの場合も含めて)1円もらえていたとしたら、今頃私は大金持ちでしょう。
さらに「お箸の使い方が上手ですね(masterful chopstick skills)」というお世辞もカウントしたら、おそらく次の巨大テック企業の買収でイーロン・マスクより高い値をつけられるはずです。

そう、この辺りで外国人であることは、急速に「普通」のことになりつつあります。
とはいえ、日本でスイス国籍であることは依然として普通ではありません。たった1,400人ほどしかおらず、在留外国人人口のわずか0.037%に過ぎません。これほど少ないと、すべてのスイス人居住者と個人的に知り合いであるべきような気さえします! しかし恥ずかしながら、実際の知り合いは片手で数えられるほど……それでも指が余るくらいなのです。






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